神君 伊賀越え カブで走破
神の君 家康公 伊賀超え
天下統一が目の前にあった、織田信長が家臣明智光秀に殺された。信長に命じられの大阪堺に行き、京都にいる織田信長のところに戻る途中に一報を受けた。わが身の危険を感じ命からがら三河へ逃げ帰ったという。 伊賀上野を経由したことから神君伊賀超えと言われている。家康にとって「生涯艱難(かんなん)の第一」と史書に記されるほどの危険な逃走劇だったようです。
歴史ものにつきものの、ルートは諸説ありのようだが一番普及しているルートをトレースした。 深掘りして歴史本を読んで追及する気などない。ましてや、険しい山道を歩く気もない。通ったとか休憩した、宿泊したとされている所を巡る、ポイントラリー的なノリで走りました。峠越えと言っても舗装道路しか走らないから、雰囲気を感じるくらいですが、空気感を感じられれば良いかなと。
逃走劇の1日目は四条畷市の飯盛山から京田辺市に。2日目は京田辺市から信楽町の小川城まで。3日目は小川城から白子浜へそこから船で三河へたどり着いたそうです。
今回の出発は京田辺市の普賢寺ふれあいの駅から終点は白子浜まで。3日間の逃避行のうち、1日目をパスし2日目と3日目の陸路を巡った感じです。
1日目(略)
飯盛山西麓(四条畷市)→星田村(交野市)→津田村(枚方市)→尊延寺村
出発地点 普賢寺(ふげんじ)ちかく
ふれあいの駅 近くのお寺にある道碑 |
草内(くさうち)の渡し
ここから先は船も出ていないので伊賀越えをたどる旅も終了となります。
普賢寺谷から興戸(京田辺市)を経由して木津川を渡河した
木津川サイクリングロードの端っこに石碑が。説明書きと石碑が増えていた。 御一行の1人穴山梅雪が別行動をとり家康公と間違われ殺されたそうで、お墓も近くにあるそうです。🪦
御一行は木津川を渡り宇治田原町へ寄っているためこの渡しが最有力だそうです。
山口城跡(やまぐちじょうあと)
ここから先は船も出ていないので伊賀越えをたどる旅も終了となります。
1日目と2日目の移動距離はそんなもんかなと感じるが、3日目の移動距離の長いこと😱
歩いてなんてとてもとても無理な距離。 馬をとっかえひっかえ乗り継いでなんでしょうがそんな上手いこといけますか?
歩いてなんてとてもとても無理な距離。 馬をとっかえひっかえ乗り継いでなんでしょうがそんな上手いこといけますか?
峠を越えて、襲撃を受けて、休憩もして、峠を越えて白子浜まで本当に行けるの?
しかも、ひとりじゃないのよ。
護衛の者が何人もいる大集団での移動
すご~ すげ~ さすが天下人になるだけあるわ
以上 カブで走った感想でした
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